
ずいぶん久しぶりのエントリーである。 初めてブログなるものを書いたのが8月4日、最新のエントリーで8月21日だから、かれこれ一月以上ブログを書いていない。 自己紹介 にも書いたとおり、ぼくには、何でも少しばかり考えてすぎてしまう癖がある。
思考の結果生まれるものには強い力がある。 この表現で理解してくれる人がいるかはわからないけれど、ぼくの場合、定期的に溜め込んだものを吐き出さないと、自分が作り出したそれらのエネルギーにあてられて、調子が狂ってしまう。 手段は様々あれど、ぼくにとってはとりあえず、アウトプットして整理するのが一番である。
ということで、1ヶ月ブログを書いていないという状態はぼくにとってあまり好ましくない状態である。 ここ数日はものを考える時に、糸くずがからまった車輪を一生懸命回しているような感覚があり、どうも頭がうまく働かない。 ここいらで、絡み付いたものを丁寧にほどき、一つひとつと向き合う必要がある。 大半は保存するような価値はないものだけれど(そういうものにはそれなりの処理方法がある)、中には整理して後で振り返ることができるようにすべきものもある。 大量に発生した雑念たちをしかるべき方法で処理していると、見えてきたものは「自分がなんのために、どうやって生きるのか」ということだった。 とりあえず、一ヶ月かけて考えたものの中に、保存すべきものがあってよかった。
僕が伝えたかったこと
初めてのエントリーである「ぼくが会社を辞めたワケ」に予想以上の反響があり、たくさんの励ましやお叱りのメール等をいただいた。 それ自体はとてもありがたいことだし、健全なことである。 ただ最近、ブログを見ていただいた方からのメッセージを読んだり、そういう方に会ってお話をするうちに、 「僕は自分の言いたいことをうまく伝えられなかったのかもしれない」と思い始めた。 今一度明らかにしておきたいのは、「僕は 『フリーランス万歳。社畜は乙。』という思考を持つ人間ではない。」ということだ。
「ブログ読みました。やっぱりこれからは起業ですよね。勇気をもらいました!」とか、「君が言っているのはただの甘えだ。君はそれに共感してくれる他人の存在を確認することで自分の行為を正当化したいだけだ。」といった反応をみると、「ちょっと待って…」と言いたくなってしまう。 そういった人たちには(ぼくに直接伝えてきてくれた人には)自分なりに誠意をもって対応させてもらったので、ここで議論をするつもりはないし、そもそも原因の大半はぼくの文章力のなさや、中途半端なところで結論に落としてしまったこと、全く意図しなかった媒体でブログが紹介されてしまったことなど、こちら側にある。 でも、よく読んでもらえばわかるはずだ。 ぼくはもっともっと普遍的な、だけど現代では見過ごされている事実を伝えたかっただけなのだ。
自分の生き方は自分の価値観にもとづいて決めるべき
人間は本質的に自由な存在のはずだ。 公序良俗に反しない限り、自分の価値観を追い求める権利は誰もが有している。 なにも会社を辞めるリスクを取ること自体が良いことだと言っているのではない。 守りたいもののために、あえてある方面では不自由を選ぶ人もいる。 逆に、僕よりもずっと大きなリスクを取る人だっている。 選択は人それぞれ尊重されるべきだ。 ただ、ぼくにはその選択が、不当に狭められた範囲でしか行われていないように思える。
資本主義が作り出した価値観や、世の中のマジョリティが作り出す価値観を盲目的に受け入れてしまうことはおそろしいことだ。 数字や肩書きの魔力はすごい。 気付かないうちに、オプションを枠の中でしか考えられなくなる。 ぼくの主張は、そのようなものの存在を理解した上で受け入れているという人にしてみれば、大きなお世話かもしれない。 だけど、そんな人がいったいどれくらいいるというのか。
ぼくは、みんなもっと素直に、純粋に自分の価値観に向き合えばいいのに、と言いたかった。 もっと言うなら、それを作り出した自分の歴史やコンテクストをもっと大事にすべきだ、と言いたかった。 楽な作業ではないけれど、一度でもそのことについて真剣に考えれば、たとえ、結果的に今の生活に変化がなくとも、景色が変わる。
人生は一度しかない。 諦めることや思考の放棄をするのは簡単だけど、死ぬまで枠の外の世界に気付かなければそれはそれで幸せなのかもしれないけれど、見るだけでもいいから、一度外に顔を出してみれば良いと思う。 決めるのはきっとそれからでも遅くはない。
ぼくがやりたいこと
読み返して気付いたのだけれど、これまでのエントリーでは、「会社を辞めました」ということしか書いていないし、実験などと言っているわりには具体的なことは何一つ言っていない。 上でも触れているけど、これでは「みんなも会社辞めようぜ!」というメッセージと取られても仕方ない。 自分としても、初心忘るべからず、ということで、ぼくがこれからやりたいことを整理しておきたい。
僕には夢があった。 表現や発信をする人になりたかったのだ。 今も昔も、ぼくが最も尊敬する人種は、作家と呼ばれる人たちである。 だけど、前述のとおり、それは「枠の中」においては、非常にとがった才能をもつ選ばれた人間にしか許されない選択とされている。 ぼくもそれはわかっていたし、周囲の人たちはもっとそれをわかっていた。 ごく自然ななりゆきで、ぼくの夢はある時点で別の、枠の中の世界ではより一般的とされるものに変更されることになった。
でも今は、ぼくを縛るものは以前より格段に少ないし、ぼくはこの世界でどうにかこうにか生き延びる術を手にしている。 ぼくは再び挑戦権を得たのだ。 ある程度のリスクは取ったし、自慢じゃないけど、失ったものだってたくさんある。 これくらいのご褒美はあってもいい。
表現する、発信する。 これらの動詞には目的語がつきものである。 ぼくは何を表現したいのだろう、発信したいのだろう。 いろいろ考えた末、僕は自分の人生をその目的語にすることにした。 理由はいくつかあるのだけれど、自分の人生とはこういうものだった、というのがなにかしらの形になるのは良いことだろう、というのが一つの理由である。 共感してくれる人が多くなくてもいい。 自分が死ぬ前に、「ぼくはこういう考えで、こうやって生きました」と、ぱっと見せられるものがあれば、それはきっと素敵なことだ。
ただ、発信するからには対象がいて、反応があった方が良い。 恋愛にしろ何にしろ、一方通行は切ない。 切ないのは嫌いじゃないけど、ぼくは心がそんなに強くないので、ときどきで結構である。 関心を持って見てもらうためには、価値のある情報を発信するべきだ。 ということで、ぼくは「自分の価値観に従い自由に生きる人の生き様」そのものを発信することにした。 「生き様」では漠としすぎているので、具体的には「自由に生きるためには実際どのようなことをすれば良いか」「自由に生きる人間には何が起こるか」「自由に生きることの社会的価値は何か」あたりを発信したい。
これなら、少しは見てくれる人がいそうである。 一つには、僕の価値観自体がそれなりに新しい。 数字や肩書きという従来から強い力を持っていた価値観にとらわれず、もっと別の価値観に従おうという動きは、ソーシャルメディアという強力なツールの出現に後押しされ、徐々に世の中にその姿を現し始めてはいるが、まだまだ新しいものだ。 もう一つには、僕が得る情報や体験は、それなりのリスクを取った人間にしか得られないものである。 良いものばかりではないけれども、希少さという観点では発信に値するものは少なからずあるだろう。
自由に生きるって、実際どのようにすればいいのか
この見出しは誤解を招くかもしれない。 これだと、自由に生きるために使える一般的フレームを発表しそうである。 もちろんそうではない。 そもそも「自由に生きる」という文言のまえにはカッコつきで(それぞれの価値観に従って)という修飾がついている。 属人的に異なる事柄に関して、ある程度の具体性を保ったまま一般的なフレームを構築することは不可能である。 なので、これから偉そうに書かれる方法論は、ぼくのためのものである。 そんなもんには興味がないという方は、読み飛ばしていただいても構わない。 ここまでよんでくれたなら、ほんとは読んでほしいけれど。 ぼくに近い志向を持つ人には参考になるかもしれない。
ぼくがやりたいのは情報の発信である。 対象は人生であり、生き様である。 と大層なことを書いたのだけれど、実はこのテーマを選んだのは、今から書くことが一番大きな理由だったりする。
自由に生きる、という選択肢を選んだ上で、手はじめにぼくがしたことは自分のリソースの確認である。 容易に想像はつくと思うけれど、いきなり大きな壁にぶち当たった。 従来、こういう生き方をしている人は二種類しかいなかった。 生まれつき才能に恵まれてそれを生業とする人たち、組織に属して特殊能力を得た後に独立した人たち、のどちらかである。 前者はスポーツ選手やアーティスト、後者はフリーライターやフリーアナウンサー等が良い例だろう。 彼らには、誰が見てもわかる、お金を払って買われるべき強力な武器がある。 一方、ぼくはそのどちらでもない。 いわば丸腰フリーランサーである。 いや、丸腰でランサーというのもおかしいので、フリー丸腰である。 異常に情けない字面に悲しくなる。 どうしよう、やっぱり無理だったのか…… とは思わなかった。 武器を持っていなくても、この体がある。 徒手空拳でなんとかできないものか。 それを考えるようになった。
その頃、ぼくは縁あってトーキョーよるヒルズ というシェアハウスに住みはじめた。 ひょんなことから始まったシェアハウスだったけれど、ほどなくして住人たちの間で、よるヒルズを情報発信のプラットフォームにする構想が持ち上がった。 これが全ての始まりである。 その時ぼくがひらめいたのは、自身でメディアを保持し、かつ自分自身をコンテンツにしてそこで発信することだった。 発信の題材が「生き様」なる大層なものになったのは、それ以外に選択肢がなかった、という事情があったのだ。 幸いその頃には、どうやら、自分の経歴や思想がなんとかコンテンツになりうる程度には人の関心をひくものらしい、ということもわかってきていた。 これなら表現や発信がしたいという志向ともマッチする。 自分のこれまでの歴史とコンテクストにこれほど感謝したことはなかった。 ぼくがこれまでにしてきた選択は、最善ではなかったかもしれないけれど、少なくとも無駄ではなかったということがわかって、救われた気持ちになった。
大きくはこれが全てだけれど、今はもう少し深く考えて、以下のような戦略で行動してみようと考えている。 正しいかどうかはわからないが、新しいことをするのに失敗はつきものである、間違っていれば修正すればいい。
戦略1:自分色のマイクロメディアを保持する
発信者には発信の場が必要である。 つまり、発信者には、なにかしらのメディアが必要である。 だけど、ぼくのような人間の発信の場にマスメディアは向かない(その前に、無理だろうという意見は置いておいて)。 一つには、力のない個人がマスメディアを所有することはできないから。 また、保持するメディアのサイズと、その中での振る舞いの自由度はトレードオフの関係にあるから。 これらはどちらも大きく「やりたいことができるか」に影響する。 ぼくはもともと自分の価値観に素直に生きるためにリスクを取ったのだから、当たり障りのない、万人に受ける情報を発信するくらいなら、リーチは少なくてもいいから自分の好きなことを発信したい。
結果、現在ぼくが保持するメディアは「トーキョーよるヒルズ」と「自分」である。 前者は家という単位のマイクロメディア、後者は個人という単位のマイクロメディアである。 自分がメディアというのはどういうことか。 これは、具体的には、ぼくと直接の知り合いだったり、ぼくがアカウントを保持するソーシャルメディアで繋がっているひとたちの集団を指している。 これらの良いところは、主体の「ファン」で構成されるメディアであるところだろう。 よるヒルズにしても、ぼくのtwitterにしても、人のアテンションを引くための情報発信はしていない。 本当に好き放題やっているだけである。 すなわち、ここに集まってくれている人たちは、ぼくや、ぼくたち自身や、そのやりたいことに関心を持ってくれた人たちなのである。 ソーシャルメディアの一番の功績は、このような新しいマイクロメディアの形成を可能にしたことだと思う。 ぼくのように、コンテンツが自分という人間にとってはうってつけのツールである。
ぼくはtwitterやfacebookといったツールをこのように捉えているので、他のフリーランサーの方々とは使い方が少々異なる。 先日、よるヒルズのイベントにお招きした、フリーライターの梅津有希子さんや、コミュニケーションデザイナーの安藤美冬さんなどは、ソーシャルメディアを活用してお仕事をされている先輩方だが、彼らは、ソーシャルメディアを「セルフブランディング」のツールと捉え、戦略的に定めたある一定のルールの下で活用している。 一方、ぼくの場合は戦略がないのが戦略、まるっきり素のまんまである。 フォローしてくれている方はおわかりかと思うけれど、しょうもないつぶやき満載である。 ぼくはちょっとだけオタク要素があるので、夜中にマニアックな情報を連発したりする。 そうすると、フォロワーが目に見えて減ることがある。 でも、それはそれでいいのだ。 素のぼくに共感してくれるクラスタと繋がっていたいので、フォロワー数という定量的指標より、どれだけ深いところで共感し合えるかという定性的指標のほうがぼくにとっては重要だ。 「自分色の」というのはそういう意味の表現である。
もちろんこれは、どっちが良くてどっちが悪い、ということではない。 本質的に目的とするところは同じだから。 戦略の違いにより、戦術にも違いがでているだけの話。
戦略2:群れること
ここで言う群れることとは、具体的にトーキョーよるヒルズというシェアハウスに暮らすことを指している。これには大きく三つの利点がある。 リスクヘッジと、シェアによるメリット、精神的な拠り所ができることである。
リスクヘッジ:
一人ではなく、複数人で暮らすことによってヘッジできるリスクは挙げだすとキリがないが、一番大きいのは固定費が下がることである。 自分の価値観に従って生きるために取らなければならなかった一番のリスクは、やはりコストに関するものである。 金銭というものさしに支配された価値観に疑問を覚えているのは確かだけれど、今の世の中を一文無しで生きていくほどのリスクを取るつもりはないぼくにとって、所属していれば安定した給与がもらえる会社という組織のありがたみは今になるとよくわかる。
シェア:
気心が知れており、大きなところで価値観を共有しており、なおかつ頭脳のレベル感が合い、さらに強みがバラバラの人間が集まるのはなかなか難しいことだけれど、実現できれば面白いことが起こる。 現在のよるヒルズはまさにこれである。 このようなコミュニティで可能になるのが、頭脳のシェア、クラスタのシェア、仕事のシェアである。
頭脳の話。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものだけれど、よるヒルズに来て「価値観と、同レベルの思考力を共有する人間の、自分とは違う視点」というものがこれほどまでに思考力の成長をドライブするのか、と思う。 少なくともぼくは、この数ヶ月で明らかに賢くなった。 知識量的な意味でなく、思考力的な意味で。
クラスタの話。ネット上の世界では、住人のtwitterフォロワーの数が計15,000人程になる。 発信者にとってこれほどの環境はない。 情報の発信はもちろんのこと、人探し、問題解決等、情報関連なら、家族にちょっと協力を仰げばたいがいのことはできてしまう。 ちなみに、よるヒルズのオープニングパーティには、Facebookのイベントページを作成し、住人がtwitterとFacebookで適当に友達を集めただけで、約150人の人に来ていただいた。
もっと面白いのがリアルのクラスタのシェアである。 いわゆる、友達の友達は友達、というやつだ。 ぼくはかなりの人見知りなので、まだあまりこの恩恵を享受できていないけれど、それでもわかる。 価値観が理解できる人にしてみれば、うちは今の日本ではトップクラスにホットな場になりつつある。 ここに住まなければ、このメンバーで群れていなければ、あり得なかった出会いや繋がりは枚挙に暇がない。 それは単に住民の友達を紹介してもらったというより、群れていることによる相乗効果が大きい。 よるヒルズ、という得体の知れない場に、得体の知れない面白い奴らが住んでいるらしいといった噂が噂を呼び、このような現象が起きているようだ。 これもまた、人脈が重要な資産であるフリーな人間には、願ってもいない話。
仕事の話。 仕事のシェアの恩恵を最も受けているのは間違いなくぼくである。 食い扶持がなかった時期には、ベンチャー企業で働くおのぱいに仕事を外注してもらっていたし、逆に、ぼくが今持っているクライアントの案件には、しんペー を巻き込んでいる。 良いところは、とにかく信頼がおけることである。 それぞれの能力や人となりは住人同士でよく理解し合っている。 仕事を振るのが楽である。 また、価値観を共有しているので、おもしろい仕事しか降ってこない。 本質的にやりたいことを、プロジェクトベースで面白い人間とできて、お金までいただける。 この上ない贅沢である。 もちろん、ぼくも人間なので、細かい作業を面倒くさいと思うことはある。 しかしぼくのなかでは最近、確実に仕事と私生活の境界がなくなりつつある。
精神的な拠りどころ:
やはり、家族がいるというのは良いものである。 ぼくは異常な寂しがりなので、シェアハウスで暮らすデメリットなどはこのメリットだけで吹き飛んでしまう。 というのは表層的な話で、ぼくにとってこの事実は、もっともっと大きな意味を持つ。 ぼくは、同性、異性関係なく、人を好きになるときは異常なまでに慎重である。 どんなものであれ、「つながり」というものは自分の行動を制約することになる。 好きな人が増えるということは、自分の手足に枷がはまるのと同義である。 言い方は悪いかもしれないが、自由に生きようとする者にとって、時にその枷は邪魔になりかねない。 とはいえ、人間は社会的な動物である。 完全に独りで生きて行ける人間など存在しない。 ましてや、ぼくは人一倍どころではない寂しがりときている。 帰るところなしには生きて行けない。 わがままか!と言われればそうなのだけれど、いまぼくの家にはそんなぼくでも繋がっていたいと思える人たちが集まっている。 大袈裟でなく、よるヒルズでの生活は、家族の意味を変えてしまった。 変える場所があることは、幸せなことである。
戦略3:プレイヤーでありプラットフォーマーであること
友人の玉置さゆりと、僕らのようなフリー丸腰たちは芸人に似ている、という話をしたことがある。 話術という武器はあれど、かれらもコンテンツは自分自身。 自らの思考回路が売り物な人たちである。 その時、ぼくらの間でひとつのリスクとして認識されたものがサステナビリティだった。 プレイヤーとして長く生き残る芸人は一握りである。 彼らの多くは、一発屋とまでは言わないまでも、非常に激しいバイオリズムで人気とそうでもない時期を経験することになっている。 そんな中、長く安定して生き残る人たちは何が違うのだろうか。 司会者に転身しているのである。 ダウンタウン、くりいむしちゅー、今田耕司。 みんな今ではプレイヤーというより、プラットフォーマーである。 やはり、人間なので、個人の思考によるアウトプットにはある程度の波が存在するし、時が経てば価値も変動する。 その時に、自分のプレーヤーとしての価値が変わったときに、プラットフォーマーとして振る舞えることが身を助けることになる。 自分の思想を反映できる場を作る能力が、僕らのような人間にも必要なのではないか。 村上龍や村上隆など、作家や芸術家と言った、表現や発信をする人種にはプレイングキュレーターとなる人が多いのもそれを表している気がする。 ぼくは今、プラットフォーマーとして振る舞うには格好の舞台の住人である。 よるヒルズでイベントをするのには、もちろんやりたいからというのが主たる理由だけど、プラットフォーマーの卵としての修行も兼ねていたりする。
ぼくの社会的価値
「何が起こるの?」の話はまだネタが少ない上に、整理ができていないのでまたの機会に登場させるとして、最後に遠大な話を少し。
ぼくがやりたいことをやると、どんないいことがあるんだろう。 いくぶん変わり者だけれど、ぼくだって社会の一員である。 今の日本の社会のシステムは一部、あまり好きではないけれど、お世話になっているし、自分の行動によって社会が少しでも良い方向に動いてほしい。
対社会という視点で見たとき、ぼくがやろうとしていることは、「新しい価値観の提言とその実行」である。 お金を、数字をものさしに全てを測り、その方面での成長をひたすらに追いかけることは、果たして今の日本にとっていいことなのだろうか。 戦後の、打ちひしがれた日本が復興するために、一致団結して一つの目標を追いかける必要があったということは、よくわかる。 今の日本を作り上げたのはその時代の先輩方の頑張りだということも理解している。 ぼくらの今の生活は彼らの頑張りなくしてはなかった。
けれど、それは今僕らがとるべき行動ではないのではないか。 時代が違うのだ。 状況が変われば、戦略が変わるのは当たり前である。 今の世界の中で、物量や経済で勝負しようだなんて馬鹿げている。 もはや、今の日本にその土俵で勝つためのリソースがないことは一目瞭然だ。 中国にGDPで抜かれたからって何だというのか。 そんなのはわかっていたことだ。
日本は経済大国だ、だから先進国だと言われている。 毎年、経済成長率がニュースになる。 なぜ経済が毎年成長し続けないといけないのだろう。 そうなるように行動することが、みんなが幸せになるための道なのだろうか。 ものさしの変更を検討する時期にさしかかっているような気がする。 もっと “善くある” ことの意味を考えた方がいい。 べつに、自分の価値観をみんなのものさしにしてほしいわけではない。 ただ、そういう時期が来ていることを一生懸命発信することで、自分の社会的価値になればできればいいなー、と思う。
ものすごく長くなってしまったけれど、一ヶ月分のアウトプットとしてはこんなもんだろう。 読み返してみて、ぼくもいろいろ考えているなあと思ってしまった。 とりあえず、頭は少しすっきりしたようだ。 また、際限のない思考の日々に戻るとしよう。