AM 02:11

Akio Murakami's something.

2012 / 3 / 3 の学び。「ダンス・ダンス・ダンス」

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あるマンガ読みおわったらスッと腹落ちした。

なんかね、僕はロマンチストすぎるうえにクソ真面目すぎるんだな。
わかってたけど、みんながみんな、馬鹿正直に超全力でよくわかんない
もんと向き合って生きてるわけじゃないんだよな。

「中二病」なんて言葉はその事実の象徴なわけで。
この世がマンガの中ほど美しくないのはそういうわけで。
ぼくが、たまに一人でいたたまれない気持ちになるのは、そういうわけで。

進化したのか、老化したのかはわからないけれど、
ちょっとだけ、視点が上がったようだ。
僕は人に関する、有機的な、ともいうべき情報のインプットへのモチベーションが、なぜか高い。
そちらの方向には異常なまでに知的好奇心が働く。
そして、幸か不幸か、吸収力も高いみたいだ。

問題は、こういう情報のインプットによって感性が鋭さを増しても、
アウトプットの性能がさっぱりなところなのかもしれない。

だいいち、なにをアウトプットすればいいのかも、まだよくわからない。
芸術なのか?ビジネスなのか?学問なのか?
みんな仕事に就いて、結婚していくのに、
いい年こいてこんなこと考えて、「中二病」っていわれてもしかたないなあ。

でも、諦めるのがこわいのだ。一度、逃げ出した経験があると、
こんどは戻るのに勇気がいるというのは、最近の一番の学びかもしれない。
今は、よくわからないなんかを探すこと以外に選択肢がない。
いまできるのは、とりあえずなんかしらそれっぽいものをやり続けることだけだなあ。
いつか、ぼくにも最適なアウトプットの場が、方法が、みつかるのだろうか。
最適でない場所に戻って生きられる人間になるのだろうか。

頭の中にふと、大好きな小説の一場面が降りてきた。

 

「踊るんだよ」

「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、
もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」

「でも踊るしかないんだよ」

「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」

 

 

僕の足はいつ停まってもおかしくない気がするけど、
羊男のいうことがちゃんとわかるくらいには成長してるようだ。
ああ、それにしても笑えるくらいに中二病だなあ。
ハイロウズの「14歳」に出てくる、ラジオが欲しい。 中二だけに。

客観中立幻想の終わりと「当事者主義」の台頭ワンダーランド 〜 春樹と苗字が同じ 〜

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お久しぶりです。

忙しさのあまり全くブログが更新できていなかったので、ついに、

「いままでFacebookにポストしていたレベルの情報をブログに書く」という暴挙に出ます。

自分の中での情報のヒエラルキーの変化。脳内情報クーデター。

なんだか国債の格付け変更みたいですね。S & P の気持ちがわかります。

あと、考えてるあいだにお客さん来ちゃったのでタイトルが残念な感じ。

くだらないこと言ってないで、本題。

 

 

きっかけ

ほぼ日の企画で、佐々木俊尚さんと糸井重里さんが「メディアと私」なる

対談をされていた。最近感じることが非常に上手く表現されていて、

腹落ちのする記事だったのと、後々、この感覚が自分の価値観のコアになる可能性を感じたので、

思考の整理をしておきます。例によって例のごとく、「自分のためのアーカイブ」として

書いてるので、後半はどうでもいいこと書いてたりします。また、今まで facebook

書いていたレベルのお話ということで、文章のクオリティの著しい低下が見込まれますが、

まずは質より量・薄利多売ということで、あしからず。

 

 

当事者主義

個人の原体験や文脈・それによって選別される情報や批評の価値が認識され始めている。

客観中立という幻想のもとに発信された情報が生み出す、「他人事」は情報の蓄積には役立っても、

人間を実際に行動に駆り立てる力にはならない。そもそも、以前はメディアにそのような役割は

求められていなかったように思えるが、3・11以降、それが大きく変化した。

 

共感を生み、個人をつなぎ・行動させ・それに対して共感を生む…というループを生成する

プラットフォームとなり、効果をスケールさせる。そのためには、ループのスタート地点となる

情報自体が個人の原体験や文脈に基づいて「語られ」なければならない。

それが当事者主義の本質だろう。

 

乱暴にまとめてしまえば、「経験者は語る」が一番パワーを持つという話。

 

共感のパワーとその評価

この動きは、ジャーナリズムやメディア界隈に限った話ではない。

日本でも昨年末〜今春に掛けて裾野が広がり、キャズムを超えつつあるソーシャルメディアの利用者数。

facebook や twitterといった「自分事」の発信を可能にするツールのペネトレーションが上昇するに

伴い、商業的なコミュニケーションの全てが小さくない影響を受けるはずだ。「データで語れない」

「客観的でない」というだけで共感のパワーを馬鹿にする人は気をつけたほうがいい。

具体的な解が見えているわけではないが、「データで語れない」のではなくて、

「従来の指標で数値化できない」というほうが正しいと思われる。

僕が心理学・認知学の分野に強い興味をもつのは、そのあたりの知見がこれからのものさしを創り、

未来を拓く鍵になる気がしているからだ。社会学やミクロ経済学の単位では語れない単位、

個人の心に関する知見が価値を持つようになる。

Survey MonkeyWildfire のように、ソーシャルメディアのインフラ上に顕在化した

人間の心の動きを解析してマーケティングのノウハウにしようという企業が乱立しているが、

そういった「ガワ」からのアプローチで本質が捉えきれるとは思えない。

 

自分が今やるべきこと

新しい生き方を模索する人間が集まる家に住み、またそのような人と語ったり、

超末端のオペレーションサイドで人間とのコミュニケーションを繰り返していると、

大企業でパソコンに映る数字の羅列とにらめっこしていてもわからないであろう、

変化の胎動のようなものがひしひしと感じられる。今は数値化やノウハウ化・公式化よりも、

この空気に首まで浸って感覚を染み込ませるときだ。このような大きな価値観の変革を

肌で感じられるチャンスは人生のうちにそうそうない。自分の身を持ってそれを経験することが、

役に立つ時が必ず来る。体で覚えてしまえば、フレーム思考による体系化は難しくない。

 

さいごに

まとまりがなく、尻切れトンボになっちゃいましたが、自分の思考は整理されたし、まあいいか。

 

あと、お願いがあるのですが、突っ込みどころや、議論の余地があるところがあれば

ぜひお気軽に声をおかけ下さい。これまでに何人か、このブログを見てコンタクトを取ってくれ

た人とお会いしましたが、やっぱり人とのコミュニケーションが、理解の促進・視野の拡大には

いちばんです。メールや、facebookでメッセージいただいてもいいですし、(twitterはやめちゃいました)

ぼくの家であり最近有名になりつつあるシェアハウスである、トーキョーよるヒルズ

お越しいただいてもいいです。

 

それでは〜

 

ぼくがトーキョーよるヒルズに見る夢

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ずいぶん久しぶりのエントリーである。 初めてブログなるものを書いたのが8月4日、最新のエントリーで8月21日だから、かれこれ一月以上ブログを書いていない。 自己紹介 にも書いたとおり、ぼくには、何でも少しばかり考えてすぎてしまう癖がある。

思考の結果生まれるものには強い力がある。 この表現で理解してくれる人がいるかはわからないけれど、ぼくの場合、定期的に溜め込んだものを吐き出さないと、自分が作り出したそれらのエネルギーにあてられて、調子が狂ってしまう。 手段は様々あれど、ぼくにとってはとりあえず、アウトプットして整理するのが一番である。

ということで、1ヶ月ブログを書いていないという状態はぼくにとってあまり好ましくない状態である。 ここ数日はものを考える時に、糸くずがからまった車輪を一生懸命回しているような感覚があり、どうも頭がうまく働かない。 ここいらで、絡み付いたものを丁寧にほどき、一つひとつと向き合う必要がある。 大半は保存するような価値はないものだけれど(そういうものにはそれなりの処理方法がある)、中には整理して後で振り返ることができるようにすべきものもある。 大量に発生した雑念たちをしかるべき方法で処理していると、見えてきたものは「自分がなんのために、どうやって生きるのか」ということだった。 とりあえず、一ヶ月かけて考えたものの中に、保存すべきものがあってよかった。

 

 

僕が伝えたかったこと

初めてのエントリーである「ぼくが会社を辞めたワケ」に予想以上の反響があり、たくさんの励ましやお叱りのメール等をいただいた。 それ自体はとてもありがたいことだし、健全なことである。 ただ最近、ブログを見ていただいた方からのメッセージを読んだり、そういう方に会ってお話をするうちに、 「僕は自分の言いたいことをうまく伝えられなかったのかもしれない」と思い始めた。 今一度明らかにしておきたいのは、「僕は 『フリーランス万歳。社畜は乙。』という思考を持つ人間ではない。」ということだ。

 

「ブログ読みました。やっぱりこれからは起業ですよね。勇気をもらいました!」とか、「君が言っているのはただの甘えだ。君はそれに共感してくれる他人の存在を確認することで自分の行為を正当化したいだけだ。」といった反応をみると、「ちょっと待って…」と言いたくなってしまう。 そういった人たちには(ぼくに直接伝えてきてくれた人には)自分なりに誠意をもって対応させてもらったので、ここで議論をするつもりはないし、そもそも原因の大半はぼくの文章力のなさや、中途半端なところで結論に落としてしまったこと、全く意図しなかった媒体でブログが紹介されてしまったことなど、こちら側にある。 でも、よく読んでもらえばわかるはずだ。 ぼくはもっともっと普遍的な、だけど現代では見過ごされている事実を伝えたかっただけなのだ。

 

自分の生き方は自分の価値観にもとづいて決めるべき

 

人間は本質的に自由な存在のはずだ。 公序良俗に反しない限り、自分の価値観を追い求める権利は誰もが有している。 なにも会社を辞めるリスクを取ること自体が良いことだと言っているのではない。 守りたいもののために、あえてある方面では不自由を選ぶ人もいる。 逆に、僕よりもずっと大きなリスクを取る人だっている。 選択は人それぞれ尊重されるべきだ。 ただ、ぼくにはその選択が、不当に狭められた範囲でしか行われていないように思える。

 

資本主義が作り出した価値観や、世の中のマジョリティが作り出す価値観を盲目的に受け入れてしまうことはおそろしいことだ。 数字や肩書きの魔力はすごい。 気付かないうちに、オプションを枠の中でしか考えられなくなる。 ぼくの主張は、そのようなものの存在を理解した上で受け入れているという人にしてみれば、大きなお世話かもしれない。 だけど、そんな人がいったいどれくらいいるというのか。

 

ぼくは、みんなもっと素直に、純粋に自分の価値観に向き合えばいいのに、と言いたかった。 もっと言うなら、それを作り出した自分の歴史やコンテクストをもっと大事にすべきだ、と言いたかった。 楽な作業ではないけれど、一度でもそのことについて真剣に考えれば、たとえ、結果的に今の生活に変化がなくとも、景色が変わる。

 

人生は一度しかない。 諦めることや思考の放棄をするのは簡単だけど、死ぬまで枠の外の世界に気付かなければそれはそれで幸せなのかもしれないけれど、見るだけでもいいから、一度外に顔を出してみれば良いと思う。 決めるのはきっとそれからでも遅くはない。

 

 

 ぼくがやりたいこと

読み返して気付いたのだけれど、これまでのエントリーでは、「会社を辞めました」ということしか書いていないし、実験などと言っているわりには具体的なことは何一つ言っていない。 上でも触れているけど、これでは「みんなも会社辞めようぜ!」というメッセージと取られても仕方ない。 自分としても、初心忘るべからず、ということで、ぼくがこれからやりたいことを整理しておきたい。

 

僕には夢があった。 表現や発信をする人になりたかったのだ。 今も昔も、ぼくが最も尊敬する人種は、作家と呼ばれる人たちである。 だけど、前述のとおり、それは「枠の中」においては、非常にとがった才能をもつ選ばれた人間にしか許されない選択とされている。 ぼくもそれはわかっていたし、周囲の人たちはもっとそれをわかっていた。 ごく自然ななりゆきで、ぼくの夢はある時点で別の、枠の中の世界ではより一般的とされるものに変更されることになった。

 

でも今は、ぼくを縛るものは以前より格段に少ないし、ぼくはこの世界でどうにかこうにか生き延びる術を手にしている。 ぼくは再び挑戦権を得たのだ。 ある程度のリスクは取ったし、自慢じゃないけど、失ったものだってたくさんある。 これくらいのご褒美はあってもいい。

 

表現する、発信する。 これらの動詞には目的語がつきものである。 ぼくは何を表現したいのだろう、発信したいのだろう。 いろいろ考えた末、僕は自分の人生をその目的語にすることにした。 理由はいくつかあるのだけれど、自分の人生とはこういうものだった、というのがなにかしらの形になるのは良いことだろう、というのが一つの理由である。 共感してくれる人が多くなくてもいい。 自分が死ぬ前に、「ぼくはこういう考えで、こうやって生きました」と、ぱっと見せられるものがあれば、それはきっと素敵なことだ。

 

ただ、発信するからには対象がいて、反応があった方が良い。 恋愛にしろ何にしろ、一方通行は切ない。 切ないのは嫌いじゃないけど、ぼくは心がそんなに強くないので、ときどきで結構である。 関心を持って見てもらうためには、価値のある情報を発信するべきだ。 ということで、ぼくは「自分の価値観に従い自由に生きる人の生き様」そのものを発信することにした。 「生き様」では漠としすぎているので、具体的には「自由に生きるためには実際どのようなことをすれば良いか」「自由に生きる人間には何が起こるか」「自由に生きることの社会的価値は何か」あたりを発信したい。

 

これなら、少しは見てくれる人がいそうである。 一つには、僕の価値観自体がそれなりに新しい。 数字や肩書きという従来から強い力を持っていた価値観にとらわれず、もっと別の価値観に従おうという動きは、ソーシャルメディアという強力なツールの出現に後押しされ、徐々に世の中にその姿を現し始めてはいるが、まだまだ新しいものだ。 もう一つには、僕が得る情報や体験は、それなりのリスクを取った人間にしか得られないものである。 良いものばかりではないけれども、希少さという観点では発信に値するものは少なからずあるだろう。

 

 

自由に生きるって、実際どのようにすればいいのか

この見出しは誤解を招くかもしれない。 これだと、自由に生きるために使える一般的フレームを発表しそうである。 もちろんそうではない。 そもそも「自由に生きる」という文言のまえにはカッコつきで(それぞれの価値観に従って)という修飾がついている。 属人的に異なる事柄に関して、ある程度の具体性を保ったまま一般的なフレームを構築することは不可能である。 なので、これから偉そうに書かれる方法論は、ぼくのためのものである。 そんなもんには興味がないという方は、読み飛ばしていただいても構わない。 ここまでよんでくれたなら、ほんとは読んでほしいけれど。 ぼくに近い志向を持つ人には参考になるかもしれない。

 

ぼくがやりたいのは情報の発信である。 対象は人生であり、生き様である。 と大層なことを書いたのだけれど、実はこのテーマを選んだのは、今から書くことが一番大きな理由だったりする。

 

自由に生きる、という選択肢を選んだ上で、手はじめにぼくがしたことは自分のリソースの確認である。 容易に想像はつくと思うけれど、いきなり大きな壁にぶち当たった。 従来、こういう生き方をしている人は二種類しかいなかった。 生まれつき才能に恵まれてそれを生業とする人たち、組織に属して特殊能力を得た後に独立した人たち、のどちらかである。 前者はスポーツ選手やアーティスト、後者はフリーライターやフリーアナウンサー等が良い例だろう。 彼らには、誰が見てもわかる、お金を払って買われるべき強力な武器がある。 一方、ぼくはそのどちらでもない。 いわば丸腰フリーランサーである。 いや、丸腰でランサーというのもおかしいので、フリー丸腰である。 異常に情けない字面に悲しくなる。 どうしよう、やっぱり無理だったのか…… とは思わなかった。 武器を持っていなくても、この体がある。 徒手空拳でなんとかできないものか。 それを考えるようになった。

 

その頃、ぼくは縁あってトーキョーよるヒルズ というシェアハウスに住みはじめた。 ひょんなことから始まったシェアハウスだったけれど、ほどなくして住人たちの間で、よるヒルズを情報発信のプラットフォームにする構想が持ち上がった。 これが全ての始まりである。 その時ぼくがひらめいたのは、自身でメディアを保持し、かつ自分自身をコンテンツにしてそこで発信することだった。 発信の題材が「生き様」なる大層なものになったのは、それ以外に選択肢がなかった、という事情があったのだ。 幸いその頃には、どうやら、自分の経歴や思想がなんとかコンテンツになりうる程度には人の関心をひくものらしい、ということもわかってきていた。 これなら表現や発信がしたいという志向ともマッチする。 自分のこれまでの歴史とコンテクストにこれほど感謝したことはなかった。 ぼくがこれまでにしてきた選択は、最善ではなかったかもしれないけれど、少なくとも無駄ではなかったということがわかって、救われた気持ちになった。

 

大きくはこれが全てだけれど、今はもう少し深く考えて、以下のような戦略で行動してみようと考えている。 正しいかどうかはわからないが、新しいことをするのに失敗はつきものである、間違っていれば修正すればいい。

 

戦略1:自分色のマイクロメディアを保持する

発信者には発信の場が必要である。 つまり、発信者には、なにかしらのメディアが必要である。 だけど、ぼくのような人間の発信の場にマスメディアは向かない(その前に、無理だろうという意見は置いておいて)。 一つには、力のない個人がマスメディアを所有することはできないから。 また、保持するメディアのサイズと、その中での振る舞いの自由度はトレードオフの関係にあるから。 これらはどちらも大きく「やりたいことができるか」に影響する。 ぼくはもともと自分の価値観に素直に生きるためにリスクを取ったのだから、当たり障りのない、万人に受ける情報を発信するくらいなら、リーチは少なくてもいいから自分の好きなことを発信したい。

 

結果、現在ぼくが保持するメディアは「トーキョーよるヒルズ」と「自分」である。 前者は家という単位のマイクロメディア、後者は個人という単位のマイクロメディアである。 自分がメディアというのはどういうことか。 これは、具体的には、ぼくと直接の知り合いだったり、ぼくがアカウントを保持するソーシャルメディアで繋がっているひとたちの集団を指している。 これらの良いところは、主体の「ファン」で構成されるメディアであるところだろう。 よるヒルズにしても、ぼくのtwitterにしても、人のアテンションを引くための情報発信はしていない。 本当に好き放題やっているだけである。 すなわち、ここに集まってくれている人たちは、ぼくや、ぼくたち自身や、そのやりたいことに関心を持ってくれた人たちなのである。 ソーシャルメディアの一番の功績は、このような新しいマイクロメディアの形成を可能にしたことだと思う。 ぼくのように、コンテンツが自分という人間にとってはうってつけのツールである。

 

ぼくはtwitterやfacebookといったツールをこのように捉えているので、他のフリーランサーの方々とは使い方が少々異なる。 先日、よるヒルズのイベントにお招きした、フリーライターの梅津有希子さんや、コミュニケーションデザイナーの安藤美冬さんなどは、ソーシャルメディアを活用してお仕事をされている先輩方だが、彼らは、ソーシャルメディアを「セルフブランディング」のツールと捉え、戦略的に定めたある一定のルールの下で活用している。 一方、ぼくの場合は戦略がないのが戦略、まるっきり素のまんまである。 フォローしてくれている方はおわかりかと思うけれど、しょうもないつぶやき満載である。 ぼくはちょっとだけオタク要素があるので、夜中にマニアックな情報を連発したりする。 そうすると、フォロワーが目に見えて減ることがある。 でも、それはそれでいいのだ。 素のぼくに共感してくれるクラスタと繋がっていたいので、フォロワー数という定量的指標より、どれだけ深いところで共感し合えるかという定性的指標のほうがぼくにとっては重要だ。 「自分色の」というのはそういう意味の表現である。

 

もちろんこれは、どっちが良くてどっちが悪い、ということではない。 本質的に目的とするところは同じだから。 戦略の違いにより、戦術にも違いがでているだけの話。

 

戦略2:群れること

ここで言う群れることとは、具体的にトーキョーよるヒルズというシェアハウスに暮らすことを指している。これには大きく三つの利点がある。 リスクヘッジと、シェアによるメリット、精神的な拠り所ができることである。

 

リスクヘッジ:

一人ではなく、複数人で暮らすことによってヘッジできるリスクは挙げだすとキリがないが、一番大きいのは固定費が下がることである。 自分の価値観に従って生きるために取らなければならなかった一番のリスクは、やはりコストに関するものである。 金銭というものさしに支配された価値観に疑問を覚えているのは確かだけれど、今の世の中を一文無しで生きていくほどのリスクを取るつもりはないぼくにとって、所属していれば安定した給与がもらえる会社という組織のありがたみは今になるとよくわかる。

 

シェア:

気心が知れており、大きなところで価値観を共有しており、なおかつ頭脳のレベル感が合い、さらに強みがバラバラの人間が集まるのはなかなか難しいことだけれど、実現できれば面白いことが起こる。 現在のよるヒルズはまさにこれである。 このようなコミュニティで可能になるのが、頭脳のシェア、クラスタのシェア、仕事のシェアである。

 

頭脳の話。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものだけれど、よるヒルズに来て「価値観と、同レベルの思考力を共有する人間の、自分とは違う視点」というものがこれほどまでに思考力の成長をドライブするのか、と思う。 少なくともぼくは、この数ヶ月で明らかに賢くなった。 知識量的な意味でなく、思考力的な意味で。

 

クラスタの話。ネット上の世界では、住人のtwitterフォロワーの数が計15,000人程になる。 発信者にとってこれほどの環境はない。 情報の発信はもちろんのこと、人探し、問題解決等、情報関連なら、家族にちょっと協力を仰げばたいがいのことはできてしまう。 ちなみに、よるヒルズのオープニングパーティには、Facebookのイベントページを作成し、住人がtwitterとFacebookで適当に友達を集めただけで、約150人の人に来ていただいた。

 

もっと面白いのがリアルのクラスタのシェアである。 いわゆる、友達の友達は友達、というやつだ。 ぼくはかなりの人見知りなので、まだあまりこの恩恵を享受できていないけれど、それでもわかる。 価値観が理解できる人にしてみれば、うちは今の日本ではトップクラスにホットな場になりつつある。 ここに住まなければ、このメンバーで群れていなければ、あり得なかった出会いや繋がりは枚挙に暇がない。 それは単に住民の友達を紹介してもらったというより、群れていることによる相乗効果が大きい。 よるヒルズ、という得体の知れない場に、得体の知れない面白い奴らが住んでいるらしいといった噂が噂を呼び、このような現象が起きているようだ。 これもまた、人脈が重要な資産であるフリーな人間には、願ってもいない話。

 

仕事の話。 仕事のシェアの恩恵を最も受けているのは間違いなくぼくである。 食い扶持がなかった時期には、ベンチャー企業で働くおのぱいに仕事を外注してもらっていたし、逆に、ぼくが今持っているクライアントの案件には、しんペー を巻き込んでいる。 良いところは、とにかく信頼がおけることである。 それぞれの能力や人となりは住人同士でよく理解し合っている。 仕事を振るのが楽である。 また、価値観を共有しているので、おもしろい仕事しか降ってこない。 本質的にやりたいことを、プロジェクトベースで面白い人間とできて、お金までいただける。 この上ない贅沢である。 もちろん、ぼくも人間なので、細かい作業を面倒くさいと思うことはある。 しかしぼくのなかでは最近、確実に仕事と私生活の境界がなくなりつつある。

 

精神的な拠りどころ:

やはり、家族がいるというのは良いものである。 ぼくは異常な寂しがりなので、シェアハウスで暮らすデメリットなどはこのメリットだけで吹き飛んでしまう。 というのは表層的な話で、ぼくにとってこの事実は、もっともっと大きな意味を持つ。 ぼくは、同性、異性関係なく、人を好きになるときは異常なまでに慎重である。 どんなものであれ、「つながり」というものは自分の行動を制約することになる。 好きな人が増えるということは、自分の手足に枷がはまるのと同義である。 言い方は悪いかもしれないが、自由に生きようとする者にとって、時にその枷は邪魔になりかねない。 とはいえ、人間は社会的な動物である。 完全に独りで生きて行ける人間など存在しない。 ましてや、ぼくは人一倍どころではない寂しがりときている。 帰るところなしには生きて行けない。 わがままか!と言われればそうなのだけれど、いまぼくの家にはそんなぼくでも繋がっていたいと思える人たちが集まっている。 大袈裟でなく、よるヒルズでの生活は、家族の意味を変えてしまった。 変える場所があることは、幸せなことである。

 

戦略3:プレイヤーでありプラットフォーマーであること

友人の玉置さゆりと、僕らのようなフリー丸腰たちは芸人に似ている、という話をしたことがある。 話術という武器はあれど、かれらもコンテンツは自分自身。 自らの思考回路が売り物な人たちである。 その時、ぼくらの間でひとつのリスクとして認識されたものがサステナビリティだった。 プレイヤーとして長く生き残る芸人は一握りである。 彼らの多くは、一発屋とまでは言わないまでも、非常に激しいバイオリズムで人気とそうでもない時期を経験することになっている。 そんな中、長く安定して生き残る人たちは何が違うのだろうか。 司会者に転身しているのである。 ダウンタウン、くりいむしちゅー、今田耕司。 みんな今ではプレイヤーというより、プラットフォーマーである。 やはり、人間なので、個人の思考によるアウトプットにはある程度の波が存在するし、時が経てば価値も変動する。 その時に、自分のプレーヤーとしての価値が変わったときに、プラットフォーマーとして振る舞えることが身を助けることになる。 自分の思想を反映できる場を作る能力が、僕らのような人間にも必要なのではないか。 村上龍や村上隆など、作家や芸術家と言った、表現や発信をする人種にはプレイングキュレーターとなる人が多いのもそれを表している気がする。 ぼくは今、プラットフォーマーとして振る舞うには格好の舞台の住人である。 よるヒルズでイベントをするのには、もちろんやりたいからというのが主たる理由だけど、プラットフォーマーの卵としての修行も兼ねていたりする。

 

 

ぼくの社会的価値

「何が起こるの?」の話はまだネタが少ない上に、整理ができていないのでまたの機会に登場させるとして、最後に遠大な話を少し。

 

ぼくがやりたいことをやると、どんないいことがあるんだろう。 いくぶん変わり者だけれど、ぼくだって社会の一員である。 今の日本の社会のシステムは一部、あまり好きではないけれど、お世話になっているし、自分の行動によって社会が少しでも良い方向に動いてほしい。

 

対社会という視点で見たとき、ぼくがやろうとしていることは、「新しい価値観の提言とその実行」である。 お金を、数字をものさしに全てを測り、その方面での成長をひたすらに追いかけることは、果たして今の日本にとっていいことなのだろうか。 戦後の、打ちひしがれた日本が復興するために、一致団結して一つの目標を追いかける必要があったということは、よくわかる。 今の日本を作り上げたのはその時代の先輩方の頑張りだということも理解している。 ぼくらの今の生活は彼らの頑張りなくしてはなかった。

 

けれど、それは今僕らがとるべき行動ではないのではないか。 時代が違うのだ。  状況が変われば、戦略が変わるのは当たり前である。 今の世界の中で、物量や経済で勝負しようだなんて馬鹿げている。 もはや、今の日本にその土俵で勝つためのリソースがないことは一目瞭然だ。 中国にGDPで抜かれたからって何だというのか。 そんなのはわかっていたことだ。

 

日本は経済大国だ、だから先進国だと言われている。 毎年、経済成長率がニュースになる。 なぜ経済が毎年成長し続けないといけないのだろう。 そうなるように行動することが、みんなが幸せになるための道なのだろうか。 ものさしの変更を検討する時期にさしかかっているような気がする。 もっと善くあることの意味を考えた方がいい。 べつに、自分の価値観をみんなのものさしにしてほしいわけではない。 ただ、そういう時期が来ていることを一生懸命発信することで、自分の社会的価値になればできればいいなー、と思う。

 

 

ものすごく長くなってしまったけれど、一ヶ月分のアウトプットとしてはこんなもんだろう。 読み返してみて、ぼくもいろいろ考えているなあと思ってしまった。 とりあえず、頭は少しすっきりしたようだ。 また、際限のない思考の日々に戻るとしよう。

イベント告知:「フリーランサーのためのセルフブランディング講座」

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みなさま、イベントの告知情報です。

僕の家、「トーキョーよるヒルズ」にて下記イベントを開催致します。

興味のある方、是非ご参加下さい!

 

▼以下イベント詳細です▼

フリーランサーの生き方に興味がある方、フリーランサーになりたい方、既にフリーランサーの方、要チェック!

 

トーキョーよるヒルズ×梅津有希子さん&安藤美冬さん

「フリーランサーのためのセルフブランディング講座」開講!

 

来る9月4日、巷で話題のシェアハウス「トーキョーよるヒルズ」にてフリーランサーのフリーランサーによる、フリーランサー(予備軍歓迎☆)のための、イベントを開催致します。個人で仕事を取って自由に生きる人間にとって、重要なスキルとなる「セルフブランディング」について、既に実施・成功されている梅津有希子さん、安藤美冬さんのお二人に、たっぷり語っていただく2時間!今回は、フリーランサーにとって強力なツールである、twitterやfacebook、blogなどにおける基本的な知識、その活用事例など、ニューメディアに特化した内容でお届けします。ご興味のある方、是非ご参加下さい。定員制につきお申し込みはお早めに!

 

 

 

演者紹介:

・梅津有希子(うめつゆきこ)
フリーライター/編集者

北海道出身。愛玩動物飼養管理士。ヤマハ札幌店、FM北海道での勤務を経て、ライターを目指して1999年に上京。株式会社まぐまぐを経て、2001年に編集プロダクションに転職。2005年に独立。2007年、UCCのエッセイコンテスト「”Good CoffeeSmile″キャンペーン」にて、4000通の中から最優秀賞を受賞。2010年3月にツイッターを開始後、飛躍的に人脈と仕事の幅が広がり、仕事の途切れない環境を構築。自分のブログに書いた、安藤美冬さんとのトークライブ「ソーシャルメディアを使った自分PR術」、「SNS用プロフィール写真の撮り方」という2本の記事を佐々木俊尚さんのツイッターでキュレーションされたのを機に、「SNSと自分PR術」「SNSとフリーランス」といったテーマでの講演・セミナー・執筆依頼が増えている。主なクライアントに、文藝春秋、光文社、集英社、スターツ出版、アイスタイルなど。現在は、ペット、健康、美容、料理など暮らし全般のジャンルでの取材・執筆や、インタビューを担当をするほか、広告のコピーでも活動中。著書に『吾輩は看板猫である』(文藝春秋)がある。

ブログ:「うめブロ」 http://ameblo.jp/y-umetsu/
Twitter:http://twitter.com/y_umetsu

 

 

・安藤美冬(あんどうみふゆ)

spree代表。1980年生まれ。
プロデューサー、プランナー、コミュニケーションデザイナー。
1つの仕事、1つの会社、1つの肩書きにとらわれず「テーマ」を持って複数の仕事をする新しい働きかたの提案者。
慶応義塾大学在学中にアムステルダム大学に交換留学。2004年に(株)集英社に入社。2008年に社内初のメディアミックスプロジェクトを成功させ社長賞を受賞。2011年1月よりフリーランスに。メディアジャーナリスト佐々木俊尚さんより「ソーシャルメディアを使っていっさい営業をすることなく仕事をするフリーランスの女性」として紹介される。
テーマは、「個人のエンパワーメント」。

50万部突破「人生がときめく片づけの魔法」の著者片づけコンサルタント近藤麻理恵氏、博報堂、ザッパラス、マガジンハウス、実業之日本社、スターツ出版など。丸の内朝大学「5R生活プランナークラス」講師、自由大学「セルフメディア学」教授。

ブログ:「Moving spree!」 http://ameblo.jp/andomifuyu/

Twitter:http://twitter.com/andomifuyu

・村上明和(むらかみあきお)

トーキョーよるヒルズ住人/ライフスタイルの実験屋さん/フリーコンサルタント

兵庫県西宮市出身。2010年に大阪大学大学院工学研究科を卒業後、P&G Japan マーケティング部に入社するも、「大きな組織に属し、組織の価値観に従って、与えられた役割をこなして生きる」という、現代社会における一般的な生き方に疑問を抱き、2012年2月に退社。株式会社ビズリーチでのWEBマーケターを経て、独立。「もっと自分の価値観に忠実に、自由に生きることはできないのか?」というテーマを追求し、手段として個人をメディア化し、その人生をコンテンツ化する、マイクロメディアマーケティングにより生きる方法を模索中。

ブログ:「AM 02:11」 http://aki0211.com/

Twitter:http://twitter.com/aki0211

Facebook:http://www.facebook.com/am.6923

 

 

 

日時:

2011年9月4日 14時~16時 17時~19時(2部制)

*1部と2部の内容に違いはございません。ご都合の良いお時間にお申し込み下さい。

会場:

六本木・昼夜逆転シェアハウス「トーキョーよるヒルズ」(各線六本木駅より徒歩5分)

http://www.facebook.com/YoruHil

*住民のプライバシー保護の観点から、住所は公表しておりません。参加が決定された方に、9月1日までに、個別にご連絡させていただきます。

料金:

3,500円

*当日会場にて承りますので、お釣りの無いようお持ち下さいませ。

定員:

各部先着25名

*上記会場詳細のご連絡をもって参加確定のご連絡と替えさせていただきます。遅くとも9月1日にはご連絡を差し上げます。

テーマ:

フリーランサーのための、セルフブランディング講座

*フリーランスとして生きる・生きようとする人間にとって、重要なスキルとなる「セルフブランディング」について、既に実施・成功されている梅津有希子さん、安藤美冬さんのお二人に、具体的な方法論や、それらを活用した体験談をお話しいただきます!

アジェンダ:

・開催のご挨拶:15分 (村上)

・ソーシャルメディア上での基本的なマナーと、フリーランスとしての心構えについて:30分 (梅津有希子さん)

facebookやtwiteer、blogといったニューメディアに置けるインターネットリテラシー、顔写真・本名を出すことの意味、炎上を防ぐ具体的な方法、フリーランサーとしての心構えについてお話いただきます

・セルフブランディングのノウハウ、情報の発信とつながりづくりについて:30分 (安藤美冬さん)

facebookやtwitter、blogを活用したセルフブランディングの具体的な方法論及び、仕事の受注に至るつながりづくりのための情報発信についてお話しいただきます。

・梅津さん、安藤さんのフリーランサーとしての体験談について(インタラクティブセッション):45分 (梅津有希子さん、安藤美冬さん)

ここまでのアジェンダで分からなかった事についてのご質問や、安藤さん、梅津さんの体験をざっくばらんに語っていただき、フリーランスの実態や楽しさ、苦しさについて、インタラクティブにコミュニケーションができるセッションです。

お申し込み方法:

下記の方法より、ご都合の良い方法でお申し込み下さい。

なお、お申し込み〆切は、2011年8月29日(月)とさせていただきます。

1. メールでのお申し込み方法

下記項目を明記の上、お申し込み先アドレス宛までメールをご送信下さい。

・タイトル【フリーランサーイベント参加希望】

・本イベントへの参加希望の旨

・お名前

・参加を希望する部(1部 or 2部)

 

お申し込み先

info.yoruhills@gmail.com

 

 

2. facebookアカウントをお持ちの方

トーキョーよるヒルズのFacebookページ (http://www.facebook.com/YoruHill) にて「いいね!」を押していただいた後、同ページ内、「フリーランサーのためのセルフブランディング講座」イベントページより参加表明をお願い致します。

注意:

定員を上回る数のお申し込みが予想されております。できる限り多くの方に参加していただけるよう、参加確定後のキャンセルはご遠慮いただきますよう、お願い致します。

ご連絡先:

その他、ご質問・お申し込みのキャンセルなどございましたら、下記連絡先まで、メールにてお気軽にご連絡くださいませ。

お問い合わせ先

info.yoruhills@gmail.com

 

 

留まられる人間・通過される人間

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この世の中に人間には2種類しかない…というフレーズはよく耳にする名言のフレームの1つ。誰が言い出しっぺなのかは知らないが、有名どころでは、パスカルとかレーガンだろうか。僕も最近、思うところがあったので、記録しておこうと思う。

 

人間には2種類ある、1つは留まられる人間で、もう1つは、通過される人間である。

 

本題に入る前に、、、

人生にはフェーズがある。ターニングポイントで、フェーズが切り替わる。進学、就職、結婚、出産、といったライフイベントは、まさにそのターニングポイント。ポイントが「かちん」と切り替わったら、進行方向が変わり、後戻りはできない。また、ポイントは明確に認識できるイベント時にのみ切り替わるわけではない。当人が成長したとき、価値観が大きく変化したときなどにも切り替わる。たとえば、僕にとっての最近の進路変更は、東京に出て会社という組織から脱却したことだった。

 

さて本題。

僕は、通過される人間である。僕のフェーズが切り替わると、それまで僕という人間と関わっていた人はスッとドアを開けて出て行ってしまう。それはさておき、最近その事を痛切に感じる出来事があった。

僕には7年半付き合った恋人がいた。どうしようもない事情があって別れてしまったけれども、お互い愛情が完全に消えたわけではない、と思っていた。先日、その彼女が東京まで僕に会いに来た。別に元の鞘に納まることを期待していたわけではなかったけれど、特別な時間が過ごせるとは思っていた。

けれど、現実は散々なものだった。

僕を一番失望させたのは、「共通言語」が失われていた事だった。僕も彼女も、もともとおしゃべりな方ではないので、2人でいても会話が続くわけではなかった。けれど、話さなくても、言葉にしなくても、相手の考えている事や愛情がわかる空気のようなものは確かに共有していた。それがなくなっていた。もう以前のように円滑にコミュニケーションが取れなくなっていた僕らは、ぎくしゃくしながら2日間を共にした。東京駅のホームで関西に帰る彼女を見送った後、僕に残されたのは強烈な空しさだった。

現在必要なものかは別にして、7年以上かけて培われたものを失わせたのは、僕のフェーズの変化だろう。東京に来て、環境が変わり、新しいものと出会い、価値観が変わった僕には彼女と共有できるものが無くなっていたのである。それを共有したいという感情さえも、僕には持てなくなっていた。

考えてみれば、他にも思い当たる節はある。小・中学校と多くの時間を共にした幼馴染みたち。いっしょにバカをやって、いっしょに怒られた、高校時代の悪友たち。同じ目標に向かって死にもの狂いで努力した、大学時代の部活仲間たち。みんな、付き合いが無くなったわけではないけれど、今の僕の価値観を説明しても分かってくれるかどうか、自信はない。

通過される人間は、自分のフェーズが変化したときに、周囲を巻き込む事をしようとしない人間である。僕の場合、その瞬間にはそういうモチベーションもないし、どのようにすればいいかも分からない。後悔するわけではないけれど、あとあと大きさなものを失ったことに気付いて、虚無感や寂寥感を覚えることになる。この種類の人間の困ったところは、概して寂しがりなところだろう。我ながら、勝手なものである。ホリエモンも著書で同じようなことを書いていたけれど、彼は後から自分に降りかかる孤独感を理解しつつ、意図的にそのように振る舞っているのだという。良い悪いは別にして、さすがというか、とんでもなく強い人だと思う。

 

 

一方、留まられる人間は、当人のフェーズが変化しても周囲の人間は減らない。また、フェーズが変化すれば、新しい属性の人が周囲に増える。結果、彼らはたくさんの人に慕われ、常にたくさんの人に囲まれて過ごす。安直な表現を用いれば、「魅力的な人」である。しかし、僕は彼らが単にそのキャラクターだけで人を魅きつけているとは思わない。少なくとも、僕の知る「留まられる人」は、それが意識的に行われているかどうかは別問題としても、そうあるために努力を惜しまない人である。

僕の尊敬する友人は「一度関わった人間は家族と思って接する」といってはばからない。言うだけなら簡単だが、並大抵の事ではない。自分が成長し、フェーズが変化すれば、当然のように同様の成長を周囲にも求めるし、そのための手助けは自分の身を削ってでも惜しまない。論より行動が先に立つタイプなので、理解できない人間には煙たいのかも知れないが、彼はおかまい無しである。当人のためになると思えば、とにかく話を聞き、手を差し伸べ、必要であれば本気で叱る。周囲の人間を次々と巻き込んでいくさまは、ブルドーザーのようで、近くで見ていると爽快感さえ覚えてしまう。間違った方向に人を引っ張るのでは迷惑な話でしかないが、彼の場合は何かしら意味のある成長を人に与える。一時的には迷惑がられたとしても、引き上げられた当人は結局、感謝する事になる。そんなわけで、彼の周りにはいつもたくさんの人がいる。何を隠そう、僕もそのうちの1人である。

 

 

僕は、決して留まられる人間の方が価値がある人間だと言うつもりはない。通過される人間にも、通過される人間の魅力がある。しがらみや人間関係に煩わされず自由に振る舞えるところとか、どこか寂しげで、放っておけなくなるところとか。なので、ぼくは自分がそちら側である事を全く悲観はしていない。ただ、たまのたまーに、留まられる人がうらやましく見えてしまうのである。

やたらと暗くなったというか、ほとんどグチのようになってしまった。twitterでも指摘されたのだけど、僕は本当はただのネクラなんじゃないだろうか。つぎは明るい内容をかければと思います。よるヒルズでの生活の事でも書きましょうか。

それでは。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。また読んでね!

僕が会社を辞めたワケ(2)

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僕が会社を辞めたワケ(1)の続きです。

 

その後しばらくは地獄の日々が続いた。仕事の量が元に戻り、状態も前に逆戻り。睡眠薬が手放せず、副作用で頭がボーッとして仕事に手がつかない。大事なデッドラインを何度もミスし、周囲に迷惑を掛けまくる。仮病でずる休みをしたこともあった。

 

結局、僕を地獄から救ったのは、見かねて相談に乗ってくれた上司の一言だった。「うちに残ることが全てじゃない。」普通に考えればクビの宣告で(実際そうだったかもしれない)、必死で取り繕うべきところなのだが、本当に親身になって考えてくれた後の結論だったので、受け入れることができた。というより、受け入れるしかなかった。その後は自分という人間について、日夜考え続けた。やりたいことを紙に書き出す、嬉しかった瞬間をひたすら思い出す、親と話す、先輩と話す、恩師と話す、カウンセリングに行く。

 

結局、わかったことは「自分はワガママだ」ということだった。要するに僕は、好きなこと以外はできない人間だったのだ。そういえば、宿題は全然やらなかった。嫌いな先生の授業は寝ていた。ピアノの練習は弾ける曲しかしなかった。アイスホッケーは攻撃しかしなかった。

 

僕はワガママだ。

 

そんな人間が大企業、ましてや、機械のごとく洗練されたシステムを持つ組織に属しながら幸せになれるはずがない。ワガママな歯車なんて聞いたことがない。我慢が足りないと言われればそうなのだけど、どうしようもない。我慢していたらまた病気になってしまう。結局、僕にはフリーで生きる、という道しか残っていなかった。

 

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そういうわけで、ぼくは今フリーランサーとして生きている。駆け出しなので、完全にフリーではないけれど、ある程度以上の自由が効く仕事以外はしない。チヤホヤはされないけれど、幸せである。

 

これから、「どうやったら現代社会で自由に生きられるか?」実験しながらその結果を記録していこうと思う。僕のように不器用で、自分の価値観に従ってしか生きられない人はきっとたくさんいる。彼らに「意外とフリーでも行けるもんだよ」という情報を発信して、選択肢を増やせればいいなと思う。

 

僕らのような人間にもきっと幸せに生きる道はある。

 

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*注1

これは勘違いされたくないのだけれど、僕は就職はしないほうがいいと言いたいわけではないです。実際、ほとんどの社会人は企業に所属しているし、彼らの多くは自分の人生にある程度満足している。ただ、特別な才能を持たない人には、それ意外に道はない、というのはきっと間違っている。間違っていてほしい。

 

*注2

この文章を通して、P&Gが良くない企業だというつもりは全くありません。問題の根源は僕のパーソナリティであり、P&Gはやはり素晴らしい企業です。特に、マーケティングは本当にすごい。社員の能力と組織の洗練度は圧倒的だと思います。今でもよく就活生の相談を受けますが、僕は基本的にお勧めスタンスです。

 

僕が会社を辞めたワケ(1)

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初めて人に会うと、ほぼ全員に同じ質問をされる。

 

「どうしてP&Gを辞めたんですか?」

 

普段は「合わなかった」の一言で済ませてしまうけれど、当然、決断は簡単なものではなかったし、結果的にも、この出来事は僕の人生を大きく変えることになった。付き合いの長い友人なんかは、本気で「村上はおかしくなってしまった」と思ったかもしれない。

 

確かに当時の僕はひどく疲れていて、健康な精神状態ではなかった。けれど、幸いにも正気は保っていたので、(おそらく)正しい選択をして、今はそれなりに人生を楽しんでいる。とにかく苦しい経験だったけど、これがなければ今の自分はない。このブログも生まれていない。記念すべきコンテンツ第1号を飾る権利くらいはあげてもいいと思う。

 

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現代の日本では、社会に出て、少なくとも数年は企業という組織に属することが、幸せな人生を送るための必要条件だと認識されている。幸福の前提条件のようなものだ。大多数の若者が、学生時代が終われば就職するものだと信じて疑わない。

 

ご多分にもれず、学生時代の僕もなるべく有名な企業に就職することが幸せに繋がると思っていた。そういう意味では、僕のキャリアの一歩目は申し分のないものだったと言える。P&Gのマーケティングと言えば、ビジネスを少しでもかじった人なら、その価値がわかるだろう。最強のマーケティング集団、従業員の能力世界一、史上最高の人材輩出企業。名声を欲しいままにするビジネス界のモンスター。内定をもらった僕は、当然有頂天になったし、自分の幸福な未来を疑わなかった。

 

だけど、現実はそうはいかなかった。

 

意気揚々と入社した3ヶ月後の夏、僕は苦しんでいた。大した量を与えられているわけでもないのに、いつまでたっても仕事が終わらない。つまらないミスを連発する。送別会の幹事さえも満足にこなせない。こんなはずじゃない。喫煙所で過ごす時間が長くなり、酒の量が増え、朝会社に行くのがつらくなった。次第に、どうしてこんなに苦しい思いをしながら生きているのか、分からなくなっていく。

 

辛うじて残ったプライドと責任感が、僕を毎朝オフィスへと向かわせていたが、自分の生き方に対する疑問は存在感を増す一方で、陰鬱な不安感が消えることはなかった。このころは、仕事を終えても、酒を飲んで誰かと話していないと落ち着かなくて、毎日終電でバーへ行き、タクシーで家に帰る日々を送っていた。当然、そのような生活が長く続くはずもなく、すぐに限界が訪れた。深夜に仕事をしながら、気を失ったのだった。睡眠障害。僕の脳みそは、睡眠中にも思考を止めることができなくなっていた。

 

人生で初めての挫折を味わった。職場に復帰してからも、腫れ物に触るような扱いと、こなせる程度に調整されたわずかな仕事をしながら、悶々と考えたことは、「自分は何が楽しくて生きているのか?」ということだった。

 

物心がついてから就職するまで、つまり人生の大半の期間、僕の関心は「人に良く思われること」にあり、それは僕の自尊心を満たすレベルにおいて、実現されてきた。勉強もスポーツも人よりできたし、いつも一目置かれる存在だった。就職もビジネス界の頂点に君臨する企業に入り、周囲の耳目を集めながら満足のいく人生を送るはずだった。

 

就職活動中、面接で綺麗事を並べながらも、それは常に意識していた。自分は目立つことが好きで、そのためなら辛い仕事にも堪えられる。自分で自分のことを分かったつもりだった。だがどうだろう。今の状態はそれが実現されていないことに起因しているのか?そうではない。後輩にはある程度尊敬されているし、大学の同期にも一目置かれている。合コンで仕事の話をすれば受けはいいし、自分のことを誇りに思ってくれる可愛い彼女もいる。

 

結果、出した結論は「僕は自分という人間を見誤って、間違った選択をしたのかもしれない」ということだった。もちろんチヤホヤされて悪い気はしない。誰だってある程度はそうだろう。だけど、そのためにしんどい思いをして、働き続けることはできなかった。取り返しのつかないことをした上に、この後どうすればいいかも分からない。「もう少し我慢してみたら」というのが大半の意見だったけれど、それ以上先の見えないトンネルを歩くことに耐えられそうもなかった。

 

僕には選択肢が無くなった。

 

僕が会社を辞めたワケ(2)に続く